所高120年の変遷


●共立英和学舎と建学の精神
 108 年前の明治31年(1898年)7月1日、所沢市内で医師として開業していた、白井要作邸の一室を教室として出発しました。設立者は医師の白井要作氏と町 内の老舗佐野屋の小沢綾助氏でした。当時、所沢町内には6歳から通学できる尋常小学校(4年)と高等小学校(2年)はありましたが、いわゆる中学校にあた る学校はありませんでした。創立者達は向学心に燃えた青年達が学ぶ場所をなんとかしたいとの考えを抱いていました。
 白井要作氏はアジアの小国 日本が、欧米の外圧に負けることなく世界と対等につきあっていくには、高い教育を受けた国民の養成が急務であると考えました。そのためには、英語に堪能にならなくてはならないと考え共立英和学舎を開塾しました。つまり「建学の精神」は「世界に通用する人材の育成」であったといえます。そこで、現在の早稲田大学と中央大学で英語と法律を学び英語が堪能で漢文と習字に通じていた高松太喜次先生が教壇に立つことになりました。高松先生は生徒達の教育に専念し、 学校の経営は白井要作氏を含め6名の有識者が担当しました。「共立」とは大勢の協力の下に設立されたという意味で用いたものといわれています。
 

●元祖自主自立
  高松先生の授業の様子が、「校友会雑誌」に書かれています。先生は生徒の個性を尊重した授業展開を行っていました。生徒が自ら勉強し研究してきた結果を、 教室において発表させ、発表についてコメントする姿勢だったと書かれています。したがって、生徒達はみなボロボロになった英和辞典を放さなかったといいま す。元祖自主自立は勉強での自主自立であったことがわかります。
 
戦後の所沢高校
   戦後の諸改革の一つである教育制度改革により、昭和23年3月新制町立高等学校として再出発しました。男子部、女子部からなり二学期制で授業を行っていま した。昭和25年所沢町が市政を施行するのに伴い「所沢市立埼玉県所沢高等学校」と名称を変更しました。また、同年校舎を移転し、現在の久米の地に 新校舎を建設しました。
 昭和27年12月ごろから学校関係者をあげて県立移管のお願いを行い、昭和28年1月には異例の県文教委員会が本校校長室で開催され、即時県移管が可決されました。3月17日に県議会で移管が可決され、25日の卒業式が県移管の第一回卒業生となりました。